説明責任(立証責任)(Accountability)

科学という営みにおいて、何らかの仮説を主張したい場合、それを説明する「責任」は主張する側に生じます。これを、「説明責任」や「立証責任」「証明責任」などと呼びます。

科学では仮説を主張する側にすべての責任が帰属され、それ以外の立場においては、その説明が有効かどうかを評価します。有効な説明になっていないと思っても、「仮説が誤っている」と示す「責任」は生じません。そもそも多くの「誤っている仮説」は、細部の定義が不明確であったり、奇妙な前提条件が導入されていたりと、正しいことはおろか誤っていることも立証しようがないのです。

仮説を主張する側は、十全な理論、妥当なデータなどをもって立証を試みます。多くの場合、「学会」がその発表の場として機能しており、そこでの承認と他の研究者による追試などを経て、はじめて社会に受け入れられることとなります。

科学という営みでは「何回以上の追試で認められるのか」や「何人以上が承認すれば認められるのか」といった区分は実際上意味をなさないため、「研究者らによる概ねの総意が得られたもの」が正当な理論として扱われることとなります。仮説⇔検証というサイクルの繰り返しによって科学は成立しているため、常に新しい理論が生まれては消えているのです。

  • 「生命の波動によって万病が治る」⇒「生命の波動」とは何を指すのか?
  • 「幽霊はいる」⇒幽霊とは何か?根拠となるデータには何があるのか?
  • 「有機農業はふつうの農業よりも良い」⇒「何が」「どのように」よいのか?

と、上のように何らかの仮説を主張したい場合、主張する側がその根拠となる重要な概念を示さなければ議論がはじまりません。

疑似科学を主張する人々は「波動の存在は否定できない」などと、批判者側に説明責任を押しつける論法を使いますが、意味がありません。なぜなら、「波動」が未定義ならば、批判者が「その波動が電磁波ならば細胞を破壊してしまうこともありますよ」と指摘しても、「我々の言う波動は電磁波ではない」などと、えんえんと指摘をかわすことができてしまうからです。

科学の場では、他の科学者にしっかりと説明された仮説のうち、さまざまな角度からのツッコミ(反証など)に耐え抜いたものだけが、きちんとした科学理論として認められるのです。逆に言えば、説明が認められない段階の仮説は、一般市民にとっては「ないも同然」なのです。

また、これは科学理論に限った話ではなく、司法の場でも見られます。おおむね、裁判における「立証責任」と同じだと考えてよいでしょう。刑法では、立証されない限り、罪はないも同然と取り扱います。